ニュートラル

フットバッグをして、他のメンバーと飲みに、いや、食いに行ってきた。
めっちゃ疲れてたけど、楽しかった。
そこで某フットバッガーの日記を教えてもらったので、早速見てみた。
なるほど。確かにあれはあれだな。それも面白かった。


小学生時代、同級生からも先生からもひどいいじめを受けていた俺は、バカの仕組みについて随分と考えていて、そのころ、バカは自分の考えを持っていないということを知った。もっと分かり易く言うと、自分の考えだと思っているその考えも、どこかで用意されている思考ルーチンの組み合わせだったり、単に勢力の強い集団の考え方に無自覚に同調しているだけに過ぎない。

と書くと、じゃあ、頭の良い奴は、反社会的であるということなのか?となってしまうが、実際にそうなのである。しかし、それはある部分に置いては反社会的であり、ある部分では社会的であるというだけの話。実際に筋の通らない事は世の中にいくらでもあり、それについて納得できないので同意しないとした場合に、反社会的であると判断されることもあるという程度。

今日、中野駅の近くの交差点で、騒音の激しい2台のバイクが、ウィンカーをつけずに左折していった。彼らは自分たちのことを、そうとうに反社会的な存在だと思っている。そして、そんな自分をとても誇らしげに思っているに違いない。
しかし、彼らの反社会性とは、単に警察のいないところだけでの話だ。パトカーの前ではウィンカーをつける。
「やべえ、サツだ!」って言葉その価値観を代表している。
結局彼らは反社会的であろうとしているのだが、結局は社会に順応している。彼らの反社会性は偽物だ。単に反社会的である事が格好いい事だと思っているので、反社会的っぽい行為によって、自分を反社会的な存在として位置づけようとしているだけに過ぎない。

その自分をカテゴライズしようとする行為自体、社会の目を気にして初めて行われる行動なのだ。

また、本当にもっと切れていて、どんどん反社会性を強めていくタイプの人間は、本当に反社会的であると言える。でも実は単なるコンプレックスの反動形成なので、彼らが賢いとは言えない。反社会的でありたいという一つの方向性を持つこと自体、全く賢くない。
書いてて面倒になってきた(っていうか、そろそろ寝ないと明日辛い)ので、省略。


自分自身の考えや、他人の考え、色々あるけど、本当に頭の良い人は、それをしっかり考慮した上で、全ての考えに属さない(自分の経験として蓄積してきた考えにもある意味属さない)、中立的な考えを持つことの出来る人間だということ。その中立的な考え方が出来た上で、最終的にそれを自分の意見として再処理し、その意見は初めて自分の意見であると言える。
自分の考え方に属しただけの意見とは、ただ刺激に対して反応しているだけに過ぎない。

で、俺はそうしたことを中学生くらいの時からずーっと考えてて、その境地を「ニュートラル」といちいち(格好つけて)英語にして頭の中でラベリングしていた。そして今でもそれを基準に他人を見ている。その人はニュートラルな価値観を持っているかどうか?という基準ね。基準は他にも色々あるけどね。
この基準で物事を考えれば、本当の優しさとは何かが見えてくる。ニュートラルであれば、常に成長していくことが出来る。

何が言いたいかって言うと、俺が幼い時から考えてきて、おそらく今後も一生俺の目標であり続けるこのことが、彼のHPのタイトルであったことが、ビックリしました。ってはなし。