違うんだ

俺は死刑賛成論者ではないけど、反対論者でもない。でも、死刑の概念は絶対に必要だ。死刑に変わる何か被害者の遺族の納得できる手段があればいらないけど。

でも、被害者や被害者の遺族のカタルシスのための死刑はありだといっている。
復讐してもむなしいだけだとクールに決めてる奴とかいるけど、虚しさの方がよっぽどマシな感じだ。本当に大切な人を失う危険のないひとだけが、更生の価値を熱く語ることが出来る。結局、殺人の罪を直接償う方法は何一つ存在しない。何をしたって釣り合いが取れるはずはない。死んだ本人は絶対に生き返らない。だけれども。

加害者が真人間になって、社会が彼を追いやった悪を認め、みんなが良い社会になっても、めちゃくちゃにされたあいつが戻ってこない事への遺族の悲しみや怒りは、むなしさよりも悲劇だということは容易に想像がつく。社会が犯罪動機の形成を促進したことについて、原因を突き止めようとするのは悪くないが、どんな努力をしても、その原因を突き止め、なくす事は無理だ。あり得ない。
更生云々を熱く語る前に、どうしたら加害者をゼロに(ゼロじゃなきゃ意味がないよ)出来るかを考える必要がある。しかし、実際それは無理。無理だから、更生云々は理想の域を出ることはない。共産主義を成功させるというのと同じ理屈で無理。


まるで俺は死刑大賛成みたいに書いてるけど、そうじゃないよ。
死刑というのは、システムとして悪くはないが、良くもない。
被害者の遺族がそれを望むなら、そうした方が良いと言ってるだけ。少なくとも、殺した奴の事情を考慮する前に、殺された被害者や遺族の事情を考慮すべき。どうやって罰を与えるかじゃなくて、どうやって遺族を納得させるかだ。遺族はあきらめる今年か出来ないのか?遺族はどんな形でも不幸でしかないけどね。

社会的要因のハッキリしている殺人もある。貧乏であるが故の強盗殺人などだ。
加害者も可哀想であるが、被害者の方がもっと可哀想だ。
この例を出すと、殺人犯にも理があるとか言ってた癖に、その例は快楽殺人の例と違う。なぜなら、本人は貧乏にならないための努力を怠っているので、その時点で十分に悪だからとか言う奴が出てくるけど、それはおかしい。
快楽殺人の奴らも、自分がそうなることを防ぐ努力を怠っているからね。
被害者の遺族が加害者の更生を望んで初めて更生プログラムが社会にとって意義のあるもになる。社会が良しだけど、遺族だけ辛い。そんな更生プログラムが有意義だと?遺族はあくまで犠牲者であるべきだと?

罪の重さで刑が確定するのが法律だけど、その罪の重さとは行為や動機でしか判断されない。被害者がどんな気持ちだったのか、これから被害者の遺族はどんな気持ちでどんな生活を送っていくのか、ということは、刑に何ら影響を与えない。

どんな社会でも、殺しをやらない奴が沢山いる事を忘れるな。

一番納得出来るのは、加害者が十分に更生した上での死刑。


社会が犯罪者を生んでいると言う理屈は、正しい。そういう側面はあると思う。だけれども、被害者が死んだのも仕方がないと片づけられるのは絶対におかしい。環境であっても、肉体が犯した罪は、肉体が責任を取るべき。
本当に明らかな要因が特定出来る場合は、それに限らないけど。例えばあいつを殺さなきゃ、お前を殺すといわれたとかね。


とか言っておきながら、実際に佐世保の小学生の事件は、加害者の母親の責任が大きすぎると思う。おそらく遺族もそれを感じていると思う。あの場合、加害者を死刑にしても全然意味ないと思うよ。