フットバッグに対するモチベーション

 最近フットバッグに対するモチベーションが高まってきた。多分、仕事が忙しくてあまり練習できない事で、欲求の需要と供給がバランスを保っているんだと思う。
 フットバッグやりたいし、上手くなりたいっていう気持ちは、TSG直前くらいから、ここ一ヶ月位前まであんまりなかったかも知れない。休みの日にフットバッグ練習するのも怠いなーくらいだった。怪我が辛かったのも大きいかも知れない。
 フットバッグやりてーってなってきてからは、気が付くとイメトレしてる。イメトレしてるだけで楽しい。楽しいからもっとフットバッグしてーっ!ってなる。好循環。実際の練習で、イメトレがかなり成果を生んでるから更に楽しい。最近はバシェクとかゼンガーとかの動画をコマ送りで見まくり。これが超面白い。なるほどなるほどー!ってなる。
 フットバッグって楽しいなー。

メチャメチャ酔っ払った

さっきまで、会社の飲み会で、飲み過ぎた。非常に酔っ払っている。

そんな状況で、過去に自分の書いた日記を読み返した。

俺の書いてる事は、俺の思っていることでは無いって事が分かり、俺が考えたことだっていうことを再認識。
思っていることと、考えていることは違う。だから、こんなに酔っ払っている時でも、俺の考えている事は分かるけど、思っていることは分からない。
つまり。十分に考えて書いた事なので、どんな状況で読み直しても、結論は変わらないと言うこと。
もちろん、そんなことは初めから分かっていたけど、改めて極限に酔っ払っている状況で書いてみると言う企画。普通の人にはどうでも良い企画だね。ある一人の為だけに書いている。エクス。



考えることは重要だ。だけど、もっと重要なのは、分かるということ。それは、考えることとはちょっと違う。分かるということは、分かるということ。
今の酔っぱらい度は相当なもの。吐いた方が楽。でも、吐くのって大変。だから吐かない。


もっと重要なのは、価値観っていうほどのものは、そいつには無い。それに気がついて欲しい。
思考ルーチンなんだ。
価値観は、思考ルーチンから脱した時に初めて持つことが出来る。すげー崇高。むずい。

絶対負けないパーソナリティ障害

タイトルのような障害は、俺が勝手に今付けた名前で、誰にも認知されてない。

いつも気になるんだけど、改札とか、エスカレーター乗る時とか、凄い混んでて、みんな並んでるのに、無理矢理に鞄とか左腕とか、強引に割り込ませてきて、俺の後ろにいた癖に、強引に俺の前に割り込んでくる奴。結局改札くぐった後とか、エスカレーター降りた後とか、ゆっくり歩いたり、立ち止まったりするんじゃねえか。
電車降りる時とかも、停車前から無理矢理ドアのところまで人混みかき分けてきて、一番前に来る奴とか。逆に、新宿とかでスゲー沢山人降りるのに、入り口付近でつり革掴んだまま、流れに逆らおうとして必死な奴とか。

コンプレックスが強いから、絶対に「敗北」とか「劣等感」を感じまいと必死。必死だからよけい敏感になる。そうやって無意味に思考回路を閉ざすからー。
別にエスカレーター無理矢理割り込まなくたって、誰もお前を敗者だとは言わないぜ。


って、前振りが長いけど、俺が言いたいのはそんな日常レベルのバカの話じゃない。
こないだ、道を歩いてると、5才くらいと思われる男の子と、彼を連れた母親の二人組が、狭いとも思えない道を一杯に占領しながら、ゆっくりと道を歩いていた。俺は例によって、「内の子供はこんなに可愛いんだから、道を譲らなくても仕方ないでしょー」的な母親で、この子供も、幼くして上手く母親の心情を読み取りつつ、コントロールしている生意気な糞ガキかとおもってたら、意外や意外、子供の方が俺に気がつき、道を空けてくれたのだ。母親から離れ、母親と子供の間には丁度人が通れるくらいの道が出来た。

「サンキュー、疑って悪かったな、お前、将来モテるぜ」

心の中で少年に礼を言いつつ、道を通ろうとしたが、信じられない事が起こった。母親が、フと俺の方に目をやり、あわてて子供の手を取り、再びその道は塞がれた。決して子供が危険にさらされた訳ではない。俺は道を空けてくれと言う気力を失い、数十メートル、交差点に辿り着くまで、ゆっくりと、時に立ち止まりながら彼らの後ろを歩いた。子供は何度か道を譲ろうとするが、母親がガッチリ手を繋いで話さない。
俺は

「信じられない、こんなバカな母親、いるはずが無い」

とは思わず、こんなバカ親に育ててもらわないと生きていけないこの子が可哀想でならなかった。あの母親は、きっとすぐに怒るだろう。子供はいつも母親に叱られないように、常に母親の顔色を見ながら暮らしている。だから後ろから大人が来ても、その大人の顔色を窺うことが出来た訳だ。
これで結果オーライ?違う。彼には既にアダルトチルドレン的傾向が観られる。例え利口に育ち、他人より頭が良く、運動も出来るようになったとしても、常に自己評価が低く、他人の目を気にしながら生きていく人間になってしまう可能性が高い。
そうした人は、普通の幸せを感じ取る能力が低い。それは不幸だ。恋をしたとしても、ひたすら相手の顔色伺い、尽くし、振り回されてしまう。

そもそも、あの母親が「絶対負けないパーソナリティー障害」である事がいけない。気付くのは本当は何歳からでも遅くない。別に良いじゃないか。歩いていて人に追い越されるくらい。


最近、強く思うようになったこと。
他人より優れていなくても、それでも幸せだと感じられる能力があれば、本人は幸せに違いないのだ。
↑この文章では、俺の本当の気持ちを誤解されそうだ。「ナンバーワンよりオンリーワン」って言葉には、全然共感持てない癖にね。

投票率

投票率の低下が問題だとメディアで言うけれど。投票率の低下の何が問題か?

政治に対して無知な人が、イメージだけで候補者や政党を選ぶ選挙だったら、投票率が高い方が問題になるんじゃない?だって、本当に政治や日本の将来について真剣に考えている人の一票の価値が相対的に下がってしまうんだよ。


政治に対する関心の無さを問題視するなら、もっともっと政治に関心が持てるように政府がもっと試行錯誤するべき。あらかじめ言っておくけど、「スポーツだけですか?日本に関心が持てるのは」みたいなバカなコマーシャルは、税金の無駄遣いだからやめて欲しい。
なぜスポーツに関心が持てるのに、政治に関心が持てないかって事だよね。国民の殆どが政治に関心を持っているなんて状態は、どう考えたって病んでるけどね。
それから、投票率が低いから、政治に関心が無いとは限らない。投票に行かないのは、政治に関心が無いからではない。

さっきニュース23で、「もっと色々選挙を面白く出来るようにした方が良い」っていってる人がいたけど、選挙が面白かったからという理由で投票所に足が向く人の一票って、微妙。

俺も夢想した

昨日の話のような事は、中学生くらいの時によく考えていて、最近、ふとまた話題に上がったので書いた。

加害者と被害者とまたその周囲の価値観から全て独立した視点で考えると結論が出てしまう。

殺人のない社会はあり得ない。環境が犯罪者を作るのもその通り。やられたらやり返すより、なるべく同じ被害が今後起こらない社会を作ることを考え、それに即したシステムを作ることも理想的な考え方だと思う。

しかし、それは夢でしかない。
宗教紛争の問題よりは、共産主義の問題の方がそっくりだ。

結局、システムの中に人がいる限り、理想のシステム(ってか思想)は永久に実現されない。
全員ロボトミー手術をするとかしないと無理。

その理想を、システムの中にいる全員が本気で信じらなければ、意味がない。ずるがしこい奴だけが美味しい思いをしてしまう世の中なんていやだよね。
もっと書くと、理想のシステムの実現により、愛されたい人間の、愛されたいがための事件が増える。万引き感覚で殺人が起こる。



だって愛されたかったんだよ。そうか、可哀想によしよし。


愛されて、認められて育った奴は殺人を犯さないか?
よーく考えてみよう。
愛されず、認められず育った奴は殺人を犯すか?
よーく考えてみよう。


被害者と加害者の間で復讐としての殺人を選択した場合。
「復讐せずに更正を望むことを諦めたって意識をもて」というのは、甚だおかしい。順序が逆だ。復讐をあきらめて、更生を望むんだ。復讐をせずに更生を望むことが前提であるというのは、理論的におかしい。原点はそもそも、やられたらやり返すだ。
かといって、それをずーっと続けていてもオワンネーヨって事で、法律が出てくるでしょ。第三者が介入することによって、アホの連鎖を断ち切る。だから法律に復讐の代行をやってもらうことで、当事者は心の安定を何とか保つ。それをあきらめた時、初めて復讐をせずに更生を望むという行為に逃げる事になる。

大切な人が虐殺されて、「どうしてそんなことしたんだ。話してごらん」なんて話合いを求める奴が、本当に被害者を大切に思っていたとは思えない。だから、人を本当に大切に思ったことのない人間だけが、そうした夢を見ることが出来る。

イラクで殺されたジャーナリストの奥さんが、旦那を大切に思ってないって言ってるんじゃないよ。むしろ、あの奥さんは、旦那を大切に思っているから、旦那が死を覚悟してまで危険な地域に赴いてきたというプライドを守ろうとしただけ。
あの旦那が日本で見ず知らずのちんぴらに殺されたら、「覚悟はしてましたから」なんてぜーったい言わないよ。言ったらバカだって。

違うんだ

俺は死刑賛成論者ではないけど、反対論者でもない。でも、死刑の概念は絶対に必要だ。死刑に変わる何か被害者の遺族の納得できる手段があればいらないけど。

でも、被害者や被害者の遺族のカタルシスのための死刑はありだといっている。
復讐してもむなしいだけだとクールに決めてる奴とかいるけど、虚しさの方がよっぽどマシな感じだ。本当に大切な人を失う危険のないひとだけが、更生の価値を熱く語ることが出来る。結局、殺人の罪を直接償う方法は何一つ存在しない。何をしたって釣り合いが取れるはずはない。死んだ本人は絶対に生き返らない。だけれども。

加害者が真人間になって、社会が彼を追いやった悪を認め、みんなが良い社会になっても、めちゃくちゃにされたあいつが戻ってこない事への遺族の悲しみや怒りは、むなしさよりも悲劇だということは容易に想像がつく。社会が犯罪動機の形成を促進したことについて、原因を突き止めようとするのは悪くないが、どんな努力をしても、その原因を突き止め、なくす事は無理だ。あり得ない。
更生云々を熱く語る前に、どうしたら加害者をゼロに(ゼロじゃなきゃ意味がないよ)出来るかを考える必要がある。しかし、実際それは無理。無理だから、更生云々は理想の域を出ることはない。共産主義を成功させるというのと同じ理屈で無理。


まるで俺は死刑大賛成みたいに書いてるけど、そうじゃないよ。
死刑というのは、システムとして悪くはないが、良くもない。
被害者の遺族がそれを望むなら、そうした方が良いと言ってるだけ。少なくとも、殺した奴の事情を考慮する前に、殺された被害者や遺族の事情を考慮すべき。どうやって罰を与えるかじゃなくて、どうやって遺族を納得させるかだ。遺族はあきらめる今年か出来ないのか?遺族はどんな形でも不幸でしかないけどね。

社会的要因のハッキリしている殺人もある。貧乏であるが故の強盗殺人などだ。
加害者も可哀想であるが、被害者の方がもっと可哀想だ。
この例を出すと、殺人犯にも理があるとか言ってた癖に、その例は快楽殺人の例と違う。なぜなら、本人は貧乏にならないための努力を怠っているので、その時点で十分に悪だからとか言う奴が出てくるけど、それはおかしい。
快楽殺人の奴らも、自分がそうなることを防ぐ努力を怠っているからね。
被害者の遺族が加害者の更生を望んで初めて更生プログラムが社会にとって意義のあるもになる。社会が良しだけど、遺族だけ辛い。そんな更生プログラムが有意義だと?遺族はあくまで犠牲者であるべきだと?

罪の重さで刑が確定するのが法律だけど、その罪の重さとは行為や動機でしか判断されない。被害者がどんな気持ちだったのか、これから被害者の遺族はどんな気持ちでどんな生活を送っていくのか、ということは、刑に何ら影響を与えない。

どんな社会でも、殺しをやらない奴が沢山いる事を忘れるな。

一番納得出来るのは、加害者が十分に更生した上での死刑。


社会が犯罪者を生んでいると言う理屈は、正しい。そういう側面はあると思う。だけれども、被害者が死んだのも仕方がないと片づけられるのは絶対におかしい。環境であっても、肉体が犯した罪は、肉体が責任を取るべき。
本当に明らかな要因が特定出来る場合は、それに限らないけど。例えばあいつを殺さなきゃ、お前を殺すといわれたとかね。


とか言っておきながら、実際に佐世保の小学生の事件は、加害者の母親の責任が大きすぎると思う。おそらく遺族もそれを感じていると思う。あの場合、加害者を死刑にしても全然意味ないと思うよ。

空も飛べるはず

自殺でもないし、事故でもない。
彼は完全に空を飛べると信じて飛んだはずだ。
麻薬の存在に敢えて気がつかない振りをしているテレビ。
どうしてなんだ?そのことに触れると、困る人が沢山出てくるんだろう。
にしても、全く触れないのはどうかと。アホらし。